真実の話など(三話)

 

令和4年(2022年)12月14日に「退職した元信者」さんから、おもたりさん(須藤花井)のお話が

書かれた大変貴重な冊子(A4 10ページ)が送られて来ました。この冊子はおもたりさんの

関係者の方が、昨年(令和3年)3月に偶然、仕舞っていた箱の中から出てきたそうです。

また、この冊子の内容は、親神様(お月様)の基本中の基本のお話であると言われていました。

尚、冊子には親神様の啓示(昭和49年1月15日)、神の言葉 (昭和49年1月17日)

真実の話 (昭和49年3月5日)の3つのお話が書かれています。

以下は、<真実のお話>の内容です。

 

1 <真実の話  昭和49年3月5日

この話 誰の話と思うかな 此の世造りた神の話を

何事も 真実よりで 思案せよ  もう近々に律も変わるぞ

何者も わしのおもわく思案せよ 今日の日とは万日となり

この世に 不思議と言うは数あれど 人間思案で解けるものなら

わしが出て 話し聞かせる事はなし 人間造りた元の話を

わしが此の度現われて 話しするのも何のためやら

この事は 数千年以前より 見定めつけておいた事やが

誰とても 知らぬ話は山とある 人間思案で解けぬ事から

この下界 地球と申せしこの場所は 人間思案で見苦しいなり

他の星は もう神代となったゆえ 人間思案はさらにないぞや

それゆえに よろづの神も現われて 話しするのも 親心から

この世を 始めたわしの言う事に 千に一つも違うことなし

誰とても  わしの言う事聞かんなら そのまゝ見せる本道の教え

それ故に 人間苦しむその事も 全てわしの手引きなるぞや

その事を みなめいめいに思案して 本道に出るもようしてくれ

なに事も  わしらの教えと思うなら 苦も喜びに変わるはずやぞ 

その事を みなめいめいの胸の内 しかと入れておく  もようするなら

今日の日も  よろずの事も思案して 一寸の油断もさらにないはず

此れほどの わしの話を聞き入れて 思案するなら 分からんことなし

今日の日は 脇目ふる間もない程に 急がしいやら 苦しいやら

今日の日に 上たる心で笑う者 近い日には わしの立腹

何事も  わしが此の世に現われて 見事掃除をしたて見せる

それまでは みなめいめいの胸の内 澄まするもようしかとしてくれ

この事を 一寸の事やと思うなよ 近々見える日があるので

わしが最後に現われて 説いた話を 最後の教えを

意味ありありと 言いしるす 親の思いが未だ分からんか

みきやとて キリストやとて神界にて 子供の事を案じておるゆえ

わしが出て みなじきじきに話し聞かする 思案してくれ

なに事にても  わしの思惑分かりたら 全て解けると 言うておくぞや

誰とても わしの子供であるゆえに 親が手を引く 迷う事なし

ほこりとて 一寸の事ではないことを みな人間は気付いておるのに

何者も  わしの思惑分からいで 病になれば医者くすりを

何事にても親たるの わしの思惑気付かん事にて

病もな 治ると言うは更になし 心通りに出しておるゆえ

熱い火傷と言うのはな 我が身が熱い のぼせ心や

のぼせとは どう言う心と思うかな これ短気と言うておくぞや

身体は わしのかしものや わしの思いで息の根までも

それ故に 病と言うは更になし 全ておのれの心通りや

その事も 今日の日ではみな忘れ 地場にも建てた 憩いの家やら

この建物も  わしの思いにかなわん故から 掃除の日には見事つぶする

これまでは 医者は立派と言うたれど  もうこれからは文句変わるぞ
 
心から直せん病と言うものは さらに無いと言うておくぞや

涙もな 出そうと思うて出せるなら 出してみい この池までも 

夢事も みなわしの思惑あるゆえに 軽く思うはさらになきよに

何事にても此の世は わしの思惑 思いのまゝ故 

アフリカに 雨が降らぬも思案せい 春が早いも思案するなら

今日の日も  一寸の思いで越せぬはず 人間思案はやく断ち切れ

この冬に 雨を多く降らせたも  みな面足の願い事から 

この願い どう言う事に思うかな これ親心と言うておくぞや

この冬に 雪を降らさぬことにては 春が何時やら 冬がいつやら

何者も 親の心が分からいで まゝにするのも もう一寸やで

今の世に 笑うて歩く畜生を ほっておくのも親心から

この親心 何の事やと思うかな 近い日まで 一寸の事ゆえ

その日には 何処に何があるのやら わしの他には誰も分からず

おのれの心をそのまゝに しかと見分ける もようするので

今日の日は 良きも悪しきも好きにせい 近い日にはしかと返すぞ

何事にても人間は 我が身思案が あるゆえに

親の試しも分からいで 信じるの 信じられぬのと 色々と言っているのも

今のうちやぞ 信じることの難儀さや 信じることの有難さとは

人間造る苗代に 使うた神のいざなみが 百数年以前にて 大和の地場で説いた筈

中山みきと言う名を借りて この事が 悟りついたらさあ歩け 病がなおる 心入れ替え

今の天理の教えとは そのまゝわしの思いとは さらに云わんぞ思案してくれ

みきが天に昇りし後 わしが話した飯降伊蔵 その後を継いだる(上田)ナライトは

(注)中山家の者達の 人間思案で出家させられたゆえ

今の教えは 中山教 大事な事は言うておらん

しかと聞け 誠のことを 今、初めて 人間子供に説き聞かす

みきが記した おふでさきは地(の巻)と天(の巻)の二冊あるなり

今、人間が読むものは天の巻なりと しかと言いおく

地の巻の おふでさきに書き記した事柄は掃除の事や後世の事や

信じられぬ者が居るならば 真柱にも問うてみい

問うたとて 一寸の事ではないからに 再三問えと言うておくぞや

それやとて 天理の教えは最後なるの わしの教えと説いておるゆえ

(注)「(上田)ナライト押し込め事件」につき、芹沢光治良著「死の扉の前で」

 (P75~76)は次のように記している。

「初代真柱様が大正三年に四十九歳の若さで亡くなられると、十歳の若様が管長に

なったが、ご母堂様(中山たまへ)は、後見人の山沢為造や松村吉太郎という

大先生方の力を借りて少年真柱を絶対権力をもつ真柱に成長させようと懸命でした。

その手始めに、大正七年にはナライト様が狂気だとして、御母堂様が自ら「おさづけ

おはこび」をなさるようにしました。これで、行政の柱と信仰の柱とを、中山家の掌中に

おさめて、現真柱様(中山正善)にゆだねたという歴史があるのです。」

甘露台は嘘ではない 今の世に わしの思いを伝える者が 天理の中に居ると

こそしれ その者達も わしの思惑あるゆえに 数々の処から引出したゆえ 

信じるならば附いてこい つきくるならば しかと分かるで

さあ言おう みなみな思案 しかとしてくれ

この世に 面足の命(須藤花井)を現わして 苦に苦を重ね 磨き上げたで

みきの道が表なら (須藤)花井の道は 裏の道になる

今の世は 大なる屋敷や家なるが 立派と言えば信じると言う おかしな事なり

花井のな 屋敷と言うは万の世や この天や 姿と言うは日なり 大蛇なり

それやとて 今の屋敷は一室や 姿と言うは 貧しいおばあや

花井にも 一人の子供おるゆえに 鉄之助と言うておくぞや

(注)この事は キリストにての聖書の中に しかと云いおく みな思案せよ

もう日が来ておるで 面足を表に出すもよう しかとするので

それ見たら 思案せい 我が身の事は いらん事や

何事にても 何者も  わしが見事に掃除するので

今の世に 立派と云うはさらになし 下と云うはさらにないぞや

これからは 陽気づくめの世の中を わしがじきじきに造ることを知れ

これからは 上や下やの隔てない みな一列の陽気づくめや

この話 夢のように思うなら これ後世とぞしかと云いおく

この世になりたら わしの思惑も みな一列に知っておるゆえ

早々と 今の世を掃除して いらん者はみな払うなり 

(注)黙示録12章1節に「また、大いなるしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽

を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた。」(中略)

女は男の子を産んだ。この子は鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。」

とあります。

この(陽気づくめの)世になりたなら 人間一列は 朝は夜明けと共に起き

己(おのれ)が喰うものは みな己で作ることになる。

それすみて 陽が真上をさすならば 何をするも  みな好きにする

この世になりたら出直しも みなが思いのまゝになるぞや

居たい者は いつまでもいよ 古着をいらぬ者は さあ脱ぎすてよ

あっちの家も  こっちの家も 酒を飲んでも  さらに苦はなし

誰が嫌うも 好きもない みな一列は兄弟たるゆえ 

この世に ほこりの心を積む者は すぐその場にて わしが引き取る

この世にて わしが引き取りと云うのはな これ抹消と云うておくぞや

それやとて もうこの世は神代ゆえ (注)子数の子しか残らん事になる

さあさあ人間一列思案して 後世に残るもようしてくれ

雨の日を望むなら 雨も降らそう 皆が良いほどに

晴れの日を望むなら 冬でも春の日のように

誰が上や下もない みな一れつに 生きることなり

地上には花が咲きみだれ 果実も山とあるゆえ

地上にも 髙台を造るなら 大和にいても 見ゆる見ゆる

そのはずや 今の山と云うのもな 土や窪(くぼみ)も みな一列に

見事平地に したてゝ見せるで 何処へ行くにも  さあさあ近いこと

何も不自由なきように 陽気づくめの世にするぞや

今日は通夜と云う家も みな寄りおうて 笑い話をして

酒を飲み 歌を唄うて舞いおうて 出直す者に願うこと

今度はわしの息子にぞ いやいや私の息子にぞ

さあさあ これ程の陽気の世 夢ではないぞ みな残ってくれやぞ

(注)「子数の子」とは、元の理(人間創造の話)の中に出てきますが

神様が、最初に創造された人間の数で「9億9万9999人」と思われます。

 

2 親神様の啓示 昭和49年1月15日

さあさ示しておこう。 神に仕えるお前達の心しかと聞き分け思案してみい。

神が求める成人の心、円やぞ、丸やぞ、和やぞ、 これ即ち無につながる。

己を切り 邪心を払い 人間のためよろづの為一心になり切る心

これ即ち真実やぞ。わしが云う真実、しかと分かるか。口では云えん

考える事もできん。じゃが①目 に出る。身体にでる。 これ真実として

わしは受け取る。 助けたいから云うのではない。

助けたいならお前達が行え。 真実の助け、これお前の改心をおいて他にない。

たすけたすけと云うではない。助けて貰う感謝を持てや。わしの云うこと、 しかと

得心いくか、いやいやまだまだ分からんや筈や。

何故ならば云うておこう。 高い山から水は流れ、低いところへ来るものや。

高い山へは水は流れん。 高慢、これはかなわん。 聞く耳持てぬ者ばかりの

よろづの世、わしもみきもみな残念や。 じゃから今こうして筆に記して云うておく。

真実とは無やぞ、②愛とは、真実の愛とは己を切り捨てる事や、全て捧げつくすことや。

これ分からずして何が云える。 いや、分かったとて、行なわずして人が分かる筈が

ない。無とは円や、和やぞ、③豪ではない。 わしは真実しかと受け取る。

何も云わずとも分かる日は来る。これ言おうとする。己の真実になりきれた時や

更に云おう。 分からん者も山とおる。 じゃがもう日が足らん。 助かる者からお助けや。

なんぼ分からん者とて助けたい。その気持は、みきとて、わしとて同じ事や。

じゃ がもう日が足りん。 先ずは神一条になりきれ。さらに、人を助けて我が身助かる。

助けさせて頂く感謝の心しかと忘れるでないぞ。 素直 、それ即ち落ち着きや

間違うでない。 掃除々々と云うておるが、先ずはお前達の心からや。

心得違いはま々ならん。 今のよろづの世、律も怖いやろ。 じゃが、わしと律と

どちらを選ぶ。  好きにせい、もう日が足りん。 しかとたのむぞ。

※次は①~③に関する「退職した元信者」さんの個人的な感想の注釈です。

注① 「目に出る」と言う事は、「目にみえる」「目に止まる」と言う事だと思う

例えば床にゴミが落ちている事に気づく 、机の上がよごれている事が目にみえる

つまり目に見える事が重要である。 目に見て気がつかなければ行動にうつせない。

→真実の思いが実行に うつせない

注②愛とは→これは「普遍的な愛」「思いやり」「他者への思いやりの心」と言う事かも

注③ ここに付け足すなら、私自身の経験から、 「そして喜びであり、楽しみや」

親様が「早起き、正直き、働き」が大切と、、、

早起きは、朝早く起きる事ではなく、目で見て気づいたらすぐ動く。

気づいてすぐ動くから、自分に対して正直、すぐ動くから働らき

※「目に出る、身体に出る 」≒「真実」


3 <神の言葉> 昭和49年1月17日

真の心に 真あるなら 心しずめて思案してみい

この業を なんの事やと思うかな 己の姿よう見えてある

天の心 地の心 二つ一つが 天の理なるぞ

なぜ見えぬ わしのせきこみ何と思う 人間思案入れるでないぞ

この町は 火の海なるぞ  あの町は火水風でないと思えよ

どのような 人間思案も おもわくも  わしの眼には 可愛いばかりや

因縁寄せて守護した わしのおもわく 何と思うぞ

しかと聞け 三六二五のくれあいに 胸の掃除を始めかけるで

火が見える 水が狂うておる姿 誰が眼にも未だ見えんか

この事を 何の事やと思いおる 人間ほこり積んでおるゆえ

残るもの 残らん者は四分六や 月日飛び出しさびわけ掃除や

さあ思案 天と地とがひっくり返る 近いで 近いで

来んものに 無理に来いとは云はんでな 日が来たらんで見ゆるしている

今の世に 笑うて歩くその姿 近い日には  わしの引き取り

引きとりも ちょっとの事ではないからに 地獄の責めや 火水風や

これ分かりたら思案せえ 人間思案さらに入れんで 欲と高慢まゝにならんぞ

何時もわしは 見分けて見抜いておる  真実ならば  しかと受け取る

真実を  一寸の事やと思うなよ ④言うと思うと行なうが 三つ一つの事を言うのや

嘘についしょうは ま々ならん よろづの世は もう許せん

此の世始めた親なれば ちょっとの事は 見許していた

※次は④に関する「退職した元信者」さんの個人的な感想の注釈です。

面足さんは、「真実は、心で思って口に出して行動することが真実だと神さんは

言ってる」と話していました。 「不言実行は無責任だと言ってる」と話していました。

しかと聞け まづ仏にて教えかけ ついでキリスト 更にみき

わしの思惑 未だ分からんか

だめの教えと しるするも 刻限近いゆえの事から

上やとて 下やとて思うなよ 皆一列にさびわけ掃除や

山が泣く 海が泣く日が  いづれ来る 泣き声聞こえば しかと走れよ

心の掃除 しかとする 頭で云うではない まづは心のほこり払いや

しかと聞け わしから掃除の口火は切らん お前達が戦い 後はわしぢゃ

この事を 何と思うて聞いておる ⑤一二は終え 後は三やぞ

この日とは ⑥九にて九がなくなりて 十にておさまりがつくのやぞ

さあ思案 全て己の業と思い しかとこえや

さあさあしかと得心せ 人が何ごと言おうとも  わしが見ている気をしづめ

天はわし地は因縁 天地一体 最後の業や

なんぼの業やと 言うたれど 生は天や 引き取りは地やぞ 歩けや歩けや

人間思案  入れるでないぞ たすける心に 我が身たすかる

人間は あざないものであるからに 人間思案ばかりやで

ちばの 西門さきの一室に 面足の命現わして 人間子供に皆とき聞かす

面足と言うのはな 此の世始めた 母親なるぞ

人間として化身の世 あざない子供に 道をしらすため

面足の魂 須藤花井と言う者の体に宿しこみ 人間最後の業も終え

今の呼び名 天照皇面足の命と 称しておる

もう日が来ておるで わしの用木 地場に集め 面足にて話し聞かそう

なんぼ上やと言うたれど 元の親には かないあるまい

※次は⑤と⑥に関する「退職した元信者」さんの個人的な注釈です。

注⑤ 一は第一次 二は第二次世界大戦 三は第三次世界大戦と思われる

注⑥ この事については、まだ現実に見えてないので何とも言えません

おふでさきにも「見えん先からといておく 見え来たなら得心せよ」とあります。

重要なのはどこの場所で見て得心するのかと言う事です。 東京(都会)の

真中で得心するのか 助け場所(避難場所)に移動していて そこで得心するのか 

都会で得心したら、それは命の終りと言う事になると思う

これ知らず あざない人間思案にて 辛い業をさせるのも 

すべて わしの験しなるぞや

さあ言おう 天は火の雨 海は津波や 刻限近いそれ故に 助け急げや

どんな者とて助けたい わしとてみきとて同じ心や じゃがもう間に合わん

助かるものから助けえや

神一条になりて来い 人助けではない 我が身たすけや

今の道 何の道やと思うかな みきも通りたくらい細道

この道越えたる所に見えておる 光の姿 しかと見ゆるぞ

何時もわしの思惑思案せよ 何ぼの者にも感謝や感謝や

思案せよ この草原もあの山も 月日飛び出し 泥海にする

この泥海 何の事やと思うかな 人間始めた 元の姿や

何も無い 無い無いずくしは有難や 有れば有るほど  ほこり積もるで

欲と色とは一の残念 二と三とは 思案 高慢

この思案 何の事やと思うておる 人間思案と言うておくぞや

何もかも 皆々わしの子供ゆえ 一列は皆 兄弟なるぞ

しかと聞け 五月に見えかけ 六七にては苦にありて 八九十にて治りがつく

この日柄何の事やと思うかな わしの立腹 たしか見するぞ

わしが幾度言おうとも 分からん者は山とおる 捨ておけ捨ておけもう間に合わん

なんぼ立派や言うたとて わしの眼には まだまだ子供や

さあ思案 神一条の道とはな 心の改心はげむ事やぞ

人が何事言おうとも  全てわしの証拠ためしや 全てわしの急き込みや 

人が見れば乱心者でも  わしはしかと見ておるで

わしは元の神 全知全能なる真の神 キリストやとて みきやとて みなみなわしの

子供や わしの名は 親神と称しておこう

稔の耳にて言い聞かせ 神々の心つないだわしは くにさづちの命と称しておく

宗教分裂さらにいかんで 後世には 一つにしょう 思案々々 行け々々。


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